素人による翻訳文学談義 ─ ソフィ・オクサネン「粛清」
本業でないとは言え,自分でも通訳や翻訳をするので,いわゆる「誤訳」には寛容なつもりである。文学作品の翻訳には上手下手の違いはあるが,名訳とは,要するに「誤訳」がそれとわからないような巧みな訳にすぎないくらいに思っている。いいかえると,読んでいて,この箇所どこか変だな,と思うことが繰り返し起こる場合は別として,誤訳云々の議論をすることに積極的な意味はないと,ふだんの私は考えている。
今年(2012)の2月に出たソフィ・オクサネン「粛清」(早川書房,原著・Puhdistus 2008) の日本語訳は,しかし,この意味で「誤訳」がかなり気になる。この本の「誤訳」には,日本語訳のもとになった英語訳 (Purge 2010)にあったものがそのまま引き継がれたものと,英語訳から日本語訳にするときに生まれたものとがある。私が気になった「誤訳」とは次のようなものだ。
「1949年 うれしい知らせばかりの手紙を書くアリーダ」(p.317-319) の章は「インゲルからはなんの便りもない。だから,ハンスの不安を静めるために,姉の名で手紙を書くことにした。」という文で始まる(p.317)。英訳もこうなっている。
これを読んで,集団連行された姉 Ingel との手紙連絡がとれるものと Aliide (アリーデ)も考えていたように受けとめる読者がいるかもしれない。しかし,エストニア人たちがどこに連行されたかは,当時のエストニアの共産党幹部にさえ,はっきりと知らされていなかった機密事項だったはずである。一方,フィンランド語原文はこうなっている。
Ingelistä ei kuulunut mitään ja pitääkseen Hansin levottomuuden aisoissa Aliide alkoi kirjoittaa kirjeitä Ingelin nimissä. (p.301)
インケリの消息は不明だった。ハンスの不安を静めるために,アリーデはインケルの名前で手紙を書くことにした。(拙訳)
Ingel から手紙が来なかったから,手紙を創作したのではない。連絡を取り合うことが出来ない境遇に追いやってしまったことを Hans に知られないために,手紙が来ていることにしなければならなかったのである。英語訳が hear about (of) Ingel とすべきところを from にしてしまったのが日本語訳に引き継がれただけで,日本語訳者の罪ではないかもしれないが,この手紙の偽造の場面の意味の理解に及ぼす影響はかなり大きいと思う。もちろん,エストニア語訳は原文に忠実である。
集団連行で,収容先を何度か移った人々のなかには,途中で死亡するなどで,その消息が一切わからなくなったケースも少なからず報告されている。生き残って「恩赦」で帰国を許された人々もいたわけだが,Ingelと娘Linda (Zara の母親)は帰国を許されなかったという設定だから,Aliide は Zara が中庭に現れるまでずっと,姉が生きていることさえ知らない。 生きていてほしくなかった姉の孫の突然の出現で,彼女の人生が急激に変わりはじめるというのが,この物語のもっとも中心的な筋になっている。
次のページの終わりには「ハンスは小部屋に消えた。それから数週間,彼はひげを剃らなかった」(p.318) とある。これは,この「手紙」をめぐる問答のあとで Hans がひげをそらなくなったように受け取れる。しかし,英語訳はここをフィンランド語原文に忠実に過去完了で訳している。
He hadn't shaved in weeks. (p.310)
かれは,何週間もひげを剃っていなかった。(拙訳)
嬉しいことがあったのにひげをそらなくなったとすれば,何かのおまじないかもしれないということになるが,ここは,伸びたままの無精ひげが気にならないほど Hans が精神的に参っていたことを言おうとしているのだというふうに読まないと,話がうまく続いていかない。
さらに数ページあとの「1950年 蚊を味わうハンス」(p.322-329)の章にも気になる箇所があるが,1箇所だけとりあげる。Zara をかつて祖父 Hans が隠れていた隠し小部屋に入れ,彼女を追ってきたロシア人の男たちをやり過ごしたあと,閉じ込められたままの Zara が騒ぎ出したことをきっかけとして,40年前,その同じ小部屋にずっと隠れていた Hans が Aliide の回想の中で蘇る。
当時の Aliide は Hans が隠れていることがいつばれるか恐れ,発覚したらどうやって逃げようかと算段していた。しかし,Hans の精神状態は相当不安定だから,いつ小部屋のなかで騒ぎ出すかわからない。そのとき,もし夫 Martin が台所にいたら万事休すである。日本語訳はこうなっている。
これに対して,フィンランド語原文と,対応する英語訳はこうなっている。どちらも,いわゆる「仮定法」が使われている。
Paitsi jos Hans saisi kohtauksensa juuri, kun Aliide olisi vaikka kamarissa ja Martin keittiössä. (p.309)
Unless Hans had an attack when she was in the bedroom and Martin was in the kitchen. (p.317)
アリーデがたとえば寝室,マルティンが台所にいるちょうどそのときに,ハンスが怒りの発作に襲われることがないとしての話だが。(拙訳)
日本語訳だと,Hans が凶暴になって,小部屋から出てきて,Martin に襲いかかることを恐れているかのように受け取れる。しかし,原文は saada kohtauksensa,英訳も have an attack だから,文字通りには「発作に襲われる」だが,ここは比喩的な用法で「心理状態がひどく不安定になる」「激昂する」というような意味で,Hans はむしろ(恐怖に)襲われる側で,襲う側ではない。Aliide が恐れたのは,Hans が突然キレれて小部屋のドアを蹴ったりして,大騒ぎになることなのである。
この文にすぐ続く文は「そのときは,寝室の窓から逃げなくてはならない」(日本語訳)となっている。これでは,Aliide は Hans から逃げることを考えていることになってしまうが,そう読んだのでは,段落の後半に続かない。話の筋から明らかなように,Hans との秘密の関係が秘密警察にわかってしまえば絶体絶命の彼女は,いざというときに行方をくらまそうと逃亡の準備をしていただけで,Hans が自分を襲ってくるなどとは少しも考えていない。
私は,日本語訳が出る前にこの小説を読んでしまったから,日本語訳で初めてこの作品に触れる人がどう読むのかにとても興味がある。日本語訳が出た2月以降,日本語での紹介が雑誌やブログなどでちらほら出ている。それらに共通なのは,この小説は数奇な運命をたどった二人の女性の出会いを描いているというふうな書き方だ。オンライン書店アマゾンによると「BOOK」データベースにはこの小説の内容はこう記述されている。
私は,そうは見ないほうがいいと思う。原作には出てこない架空の人物を登場させ,主人公をその人物と激しく対話させることによって,主人公の心の葛藤を表現する手法は,舞台や映画で比較的よく用いられる。「粛清」はもともと戯曲であるから,主人公の分身を登場させる手法が最初から使われていたとしても不思議はない。この作品は Aliide を主人公とする物語であって,Zara という姉の孫との対話を通じて,主人公は自分の過去と正面から向き合っているのだと理解したい。
もちろん,ロシアの極東や中央アジアに住みついたままになったエストニア人たちは現実にいたし,「西側」に人身売買で買春の出稼ぎ仕事に出るロシアの若い女性たちは大勢いたわけだから,Zara のような境遇の娘はおそらく何人もいただろう。また,ベルリンで Zara を買いにやってきたフィンランド人の男が風刺されている場面(p.272)も,似たような会話が実際に頻繁に行われていたと考えて間違いない。しかし,現代社会における女性の人身売買や売春の社会問題は「粛清」において中心的なテーマのひとつにはなっていないと私は考える。
| 固定リンク
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- フィンランド語の電子朗読絵本 - kuvaäänikirja(2012.11.28)
- ソフィ・オクサネン情報(2012.11.15)
- 五木寛之「霧のカレリア」(2012.11.11)
- フィンランド絵本新刊「木の音をきく」(猫の言葉社)(2012.10.11)
- 新聞・雑誌の電子版(2012.09.18)
「言語」カテゴリの記事
- フィンランド語の電子朗読絵本 - kuvaäänikirja(2012.11.28)
- フィンランド語読み上げ iPad アプリ(2012.06.23)
- リンネルの手ぬぐい(2012.05.29)
- 素人による翻訳文学談義 ─ ソフィ・オクサネン「粛清」(2012.05.17)
- フィンランド語の人気が低下?(2012.03.21)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント