ソフィ・オクサネン「粛清」の日本語訳
ソフィ・オクサネン「粛清」 Sofi Oksanen: Puhdistus の日本語訳が先々週(2/15初版発行),早川書房から出た。
早川書房: 粛清・ハヤカワ・オンライン
日本でどのくらい読まれるのかはまだ未知数だが,世界的なベストセラーにアクセスできるようになったことは喜ばしい。次は映画の完成が待たれる。エストニアでのロケはたぶん去年のうちに終ったのではないかと思われる。
関連ページ: ソフィ・オクサネン「粛清」 - Sofi Oksanen: Puhdistus (2010/10/15)
関連ページ: ソフィ・オクサネン「粛清」の電子版 (2011/01/24)
関連ページ: ラジオドラマ「粛清」 - Raadioteater: Sofi Oksanen "Puhastus" (2011/08/13)
【2月26日】
本が届いたので,あとがきや奥付から読んでみた。
さっそく,「重大な間違い」に気づいてしまった。あとがきに「エストニアは...地理的には,フィンランドの北にある」と書かれているが,フィンランドの北はノルウェーである。この箇所は「エストニアは...地理的には,フィンランドの南にある」と直して欲しい。 (日本語訳 p.402)
翻訳者が専門は英米文学らしいが,フィンランド語からの日本語訳であるかのような印象を与える。でも,英語からの重訳を示唆する「指紋」がかなり残っている。たとえば,英訳にある誤訳がそのまま受け継がれている。原作では,ガソリン bensiini (bensa) と灯油 petroli を区別しているが,私の持っている英訳ではすべてガソリン (gas, gasoline) になっているようだということは以前指摘した。たとえば,最後の場面 (p. 367) で,Aliide が使うのは petroli 灯油であって,ガソリンではないが,日本語訳は英訳にしたがってガソリンになっている。まあ,燃えてしまえば似たようなものだが,取り扱い方がぜんぜん違う。暮らしぶりから見ても,Aliide がガソリンを買っていたとは考えにくい。また,作品全体で用例検索してみると,2つの単語には使い分けがあり,自動車の燃料の時はちゃんとガソリンという語が使われているようなので,作者が混同しているとは考えにくい。もっとも,これは「重箱の隅」的な話で,気にならない人は気にならないかもしれない。
関連ページ: ガソリンと灯油 - bensiini ja petroli (2010/10/17)
関連ページ: ガソリンと灯油 (2) - bensiini ja petroli (2010/10/21)
エストニアの中の地域区分として出てくる「ラーネマー」(章の見出し)と「西部エストニア」(公文書の見出し)だが,原書ではどちらも Länsi-Viro つまり「西エストニア」である。エストニア語訳でもともに Lääne-Eesti 西エストニア となっている。たとえば最初の章(p.7)の「1992. Länsi-Viro」を「1992 Western Estonia」ではなく「1992 Läänemaa, Estonia」としているのは英訳で,日本語訳もそれにならって「一九九二年 エストニア共和国 ラーネマー」としたものと思われる。他方,英訳では,原著の公文書につけられた「1946 Länsi-Viro」が「1946 Western Estonia」になっている。訳せば確かに「一九四六 西部エストニア」である。念のためにつけ加えるが,Zara の逃亡の道筋の地名から考えて,Aliide が住んでいるのは,今の行政区分でラーネマー Läänemaa (西の国)とよばれている県の中にあると考えるのはもちろん妥当である。 【*注1】
主人公 Aliide がアリーダになっているのは個人的に違和感がある。フィンランド語でもエストニア語でも e は曖昧母音としては読まれないから,エストニア人の名前としては「アリーデ」「アリーテ」としてほしいところ。おっと,これも「重箱の隅」的なつまらない不満だ。忘れよう。
こんな会話絶対にしないとう箇所も,英訳を通したために原文と似ても似つかなくなっているだけだったりする。たとえば「おはよう,ザラ。あんたの身体は睡眠を必要としていたようだね」(p.59) 英訳を見ると I guess you needed some sleep. となっている。原文 (s.60) では
Uni taisi maittaa.
「ぐすっり眠れたようだね」とでも訳せばぴったりかと思う。
原作には,旧ソ連邦の事情を背景知識として知らないとうまく訳せないところがいくつかあって,これがどう訳されるか,楽しみにしていた。語源は知らないが tibla はロシア人に対するエストニア語の蔑称だ。この言葉を,極東に育ち,祖母としかエストニア語を話したことがなかった Zara が知っていたこと自体は驚きだが,それはともかく,これは,北米で言う jap のたぐいの単語である。原書ではフィンランド語de ryssä と言い換えて説明している。日本語訳では「ロシア人野郎」となっているところをみると「露助」(ろすけ)は最近使われなくなったようである。(pp.86-87) 【*注2】
もうひとつ,「マガダン」は単に「オホーツク海沿いの都市」ではない。強制労働収容所があったところである。 tibla に加えて「マガダン」が書かれていたとなると,かなり強い憎悪の表現で,「ロシア人は出ていけ」と書くくらいのインパクトがある。(日本語訳 pp.86-87)
【*注1】 原書では,ソ連併合以前,ソ連時代,独立回復後に関係なく,それぞれの章の見出しでは,物語の舞台は「Länsi-Viro」(西エストニア)だと書いているだけだが,英訳ではこれが Läänemaa, Estonia ― Läänemaa, Estonian Soviet Socialist Republic ― Läänemaa, Estonia のように年代によって書き分けられている。日本語訳もこれにならって「エストニア共和国 ラーネマー」「エストニア・ソビエト社会主義共和国 ラーネマー」「エストニア共和国 ラーネマー」と変わっていることに気づいた。これは確かに親切なのだが,あまり意識しすぎるのも考えものだ。生まれてから一度も故郷を離れたことのない Aliide は,政治体制の交代という歴史の大きな流れを,自分を見舞った出来ごとや,自分の住む村の生活や村人との人間関係の移り変わりとして体験しているだけだと考えたほうがいい。これは意見が分かれるかもしれないが,「粛清」をエストニア民族の苦難を描いた史小説であるかのように考えるのは当たっていないと私は思っている。 [2012/02/28]
【*注2】 翻訳ではドアに tibla とロシア語で書かれていたとされるが,原文では「ロシア語で」とは書かれていないので,キリル文字だったかどうかもわからない。英訳の In Russian. 「ロシア語で」にあたる箇所には,エストニア語の tibla に相当するフィンランド語 ryssä が言い換えとして添えられている。日本語訳で「ロシア人野郎」という注がついている箇所は,英訳では "Tibla" となっているが,原書では ryssä というフィンランド語になっていて tibla は使われていない。「ロシア人野郎」は英訳の Russkie の訳のようだ。 整理すると
フィンランド語原文: ... ovessa luki tibla, ryssä.
「ドアに tibla (露助) と書いてあった」
英語訳: ... "tibla" on the front door, in Russian.
日本語訳: 玄関ドアに”ティブラ”って書いてある。ロシア語で。
フィンランド語原文: ... oveenkin kirjoitettiin ryssää ja ...
英語訳: Aliide's door had "tibla" ― Russkie ― and ...
日本語訳: 玄関ドアに”ティブラ”─ロシア人野郎─と...
英語訳では,わかりやすくするために原文とはかなり違う言葉遣いをすることも少なくないが,日本語訳の伝統では,ここまで原文から離れることはあまりないと思う。英語の小説の日本語訳でこれをすると,英語の勉強のつもりで原文と対照して読んだ読者から,誤訳が多いいいかげんな訳だとして批判されるはずである。念のためお断りするが,これは日本語訳に残る英語訳の「指紋」の1つを指摘しただけであって,翻訳はどうあるべきかという議論ではない。私個人としては,日本語訳で問題にされる「厳密さ」「正確さ」の考えかたには懐疑的である。 [2012/02/28]
【改訂記録】 2012/02/16 の書き込みを,2012/02/26 に大幅改訂。2012/02/28 加筆。
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投稿: 偽物ブランド | 2020年6月 3日 (水) 23時22分