Viro と Eesti (エストニア)
エストニアは,フィンランド語では Viro と呼ばれ,エストニア語では Eesti または Eestimaa と呼ばれる。ピリオド。
ところが,フィンランド語でエストニアのことを Eesti と呼ぶ人が今でもいるらしい。2009年に出た Arvi Lind - Kaarina Karttunen: Arvin kieliopas (Arvi のフィンランド語指南)という本を読むとそのことがわかる。【*】
フィンランド語で Eesti を使うのがなぜまずいかというと,フィンランド語という文脈の中では,Eesti が独特の政治的ニュアンスを伴っていると多くの人が意識しているからである。このニュアンスの違いを理解するもっとも簡単な方法は,それぞれの表現がほぼ排他的に現れる対照的な文脈を見ることだろう。
Viron tasavallassa asuu virolaisia, jotka puhuvat viron kieltä.
エストニア共和国にはエストニア人が住み,エストニア語を話している
Neuvosto-Eestissä asuu eestiläisiä, jotka puhuvat eestin kieltä.
ソビエト・エストニアにはエースティ人が住み,エースティ語を話している
変なカタカナ語を使ってみたが,フィンランド語原文から感じられる意味合いの違いは非常に大きい。
ソビエト時代,タリンからは,フィンランド向けにフィンランド語のラジオ放送が送信されていたが, Viro (国名), viro (言語名) は,いわゆる放送禁止用語に含まれていた。エストニアの共産党員たちは,フィンランド語で Viro と口にすることは,暗に現政権を批判することであると考えて,Viro をフィンランド向けのフィンランド語放送の中で使うこと禁じるとともに,フィンランドのマスコミに対しても同様のことを申し入れていたという。そのような申し入れが実際に正式にあったのかどうかは知らないが,隣国ソ連邦との関係に細心の注意を払っていたフィンランドのマスコミで,Viro ということばが使われることはまずなかった。当時,フィンランドのテレビ放送は,タリンを中心とする北エストニアでは非常に人気があり,ニュースはフィンランドのテレビでしか見ないというエストニア人が多かったことは公然の秘密であった。大学の言語学の講義では,エストニア語は viro ないし viron kieli と呼ばれていたが,1980年代の終りになるまでは,一般のフィンランド人がエストニア語を学ぶことはほとんどなかった。逆に,エストニアでは,フィンランド語が,事実上唯一,おおっぴらに学ぶことが許された「西側」の言語だったと言ってもいい。
ソ連邦が崩壊すると,フィンランドのマスコミはこの種の「自主検閲」をしなくても済むようになった。もちろん,エストニアの新しい国家として Viron tasavalta エストニア共和国が半世紀ぶりに再び公に登場した。ところが,1990年代の初めころ,タリンのホテルで,
Puhutko sinä eestin kieltä?
あなたは,エースティ語を話すの?
と話しかけてきたフィンランド人の女性旅行者がいて,私は,一瞬耳を疑い,彼女はKGBの手先ではないかと緊張してしまった思い出がある。若いフィンランド人なので,半世紀にわたって放送禁止用語になっていた Viro, viron kieli という言い方に馴染みがなかったのだと思うが,フィンランドに大勢いた左翼系 vasemmisto の若者だった可能性もある。
というわけで,ソ連邦崩壊と同時に,フィンランド語で Eesti, eestin kieli を使うと,ソビエト体制を性懲りなく賛美する復古主義者という政治的烙印を押されかねない言語状況が生じたように思う。面白いのは,「左翼=進歩的・革新的」という図式が完全に崩壊し,今や,左翼は「保守反動」と同義語になってしまったことだ。国名や言語名の選び方が,その人の政治的対場を象徴的に表す例としては,日本で「朝鮮語」「韓国語」「ハングル語」「コレア語」などと呼ばれている言語のことを思い浮かべると,状況が少し理解しやすくなるかもしれない。
関連ページ: Erkki Lyytikäinen: Viro vai Eesti? (Helsingin Sanomat Kuukausiliite tammikuu 1998)
【注*】
この本の著者は,フィンランドのNHK,つまり YLE の放送で使われるフィンランド語に文法の間違いなどないように監視するとともに,言葉遣いに関する視聴者からの苦情や質問の応対する仕事を放送局から委嘱されている言葉のプロたちだ。Arvi Lind さんは,大学でフィンランド語学を専攻し,定時ニュース番組のアナウンサーとして長年活躍した人で,私もこの人の顔を知っている。定年退職後,この仕事を依頼された。Kaarina Karttunen さんは,フィンランド語のスラング辞典で有名な女性言語学者である。タイトルを「Arvi のフィンランド語指南」と訳した 140 ページほどの本には,日本でもよくある「正しい日本語」のようなタイトルの本と同じようなことが書いてある。たとえば,「食べれる」のような,いわゆる「ら抜き言葉」や,「ワインにこだわる」のような「こだわる」の使い方は正しくないといった話だ。大部分は細かい退屈な話 (失礼) だが,中にはこの Viro と Eesti の話のように面白いものもある。
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