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小説の登場人物の話す外国語

 ソフィ・オクサネン Sofi Oksanenの「粛清」 (Puhdistus) は,フィンランド語で書かれているが,登場人物たちが話しているのは,エストニア語とロシア語(のはず)である。そのことがどのくらい作品の中で明示的に述べられているかに注意して読み直しているのだが,意外にも,大したことは書かれていない。

 状況から考えて Aliide はロシア語がかなりできるはずである。なぜなら,小説の最後に近い場面で,逃げた Zara を追って Aliide の家を訪れた Zara のロシア人の「夫」とのやりとりを,Aliide はロシア語でこなしている。小説では,ドアを開けて客人と話す Aliide のロシア語で応対する声が,家の中の秘密の場所に隠れていた Zara の耳に聞えてきたと書かれている (p.296) だけだが,会話はすべてロシア語で行われたに違いない。いずれにしても,Aliide の世代のエストニア人で,彼女のような立場にあった女性なら,夫の仕事の関連でロシア人との付き合いも多かったはずで,ロシア語の知識は必須だったと考えて間違いないだろう。ただ,エストニア人の話すロシア語だから,独特の訛りがあったと考えられる。もし映画化する場合には,ロシア語の会話になるはずだと思う。フィンランドではまずありそうにないとも思えるが,エストニアの劇場の舞台だったら,あるいはロシア語になるかもしれない。

 ロシアの極東のウラジオストクで生まれ育った Zara の父親はロシア人だが,飲んだくれていたということくらいしか書かれていない。母親 (Linda) は Zara とはロシア語だけで話していた。祖母 (Ingel) ともロシア語で話してきたが,あるきっかけで,母親に隠れてエストニア語を祖母から習うようになり,ふたりだけの時はエストニア語を話していたと小説の第1部に書かれている。Aliide の家にたどり着いた Zara はエストニア語をどんなふうに話したのだろうか。オペラならともかく,ふつうの演劇の舞台では「字幕」を出したりしないだろうから,フィンランドの舞台では,Zara はずっとフィンランド語で話すのだろう。しかし,もし映画化する場合にはどうするか考える必要がある。

 この娘はロシア人ではないかと Aliide が気づくのは,Zara の話すエストニア語を聞いた時である。庭に横たわっている Zara を見つけた Aliide は,彼女の頭部に水をかけて目を覚まさせる。気がついた Zara の最初のことば Ei. Ei vettä. Ei enää.「いや。水はやめて。もうやめて」 を聞いたときは,まだ Aliide はまったく不信をいだかない。しかし,次いで,医者を呼ぼうかという提案に対し,Zara が拒否の返事をして,まとまった話をし始めたとき,そのエストニア語がどこか奇妙で,ロシア語訛りがあることに初めて気づく。

- Ei! Ääni kuulosti varmalta, vaikka katse pysyi yhä harhailevana. Kirkaisua seurasi tauko ja äkkiä toisissaan kiinni olevia sanoja siitä, että hän ei ole tehnyt mitään, ettei hänen takiaan tarvitse kutsua ketään. Sanat tökkivät toisiaan, alut takertuivat sananloppuihin, korostus oli venäläinen. Tyttö oli venäläinen, Viroa puhuva venäläinen. (p.16)
 「やめて!」焦点の定まらない目のままだったが,しっかりした声だった。叫び声のあと,少し間があって,突然,脈絡のある単語を続けて口にした。私は何もしていない。私のせいで誰も呼ぶ必要はない。単語は,最初と最後がくっついたりで,なめらかにつながってはいなかった。ロシア語の訛りがあった。この娘はロシア人だ。エストニア語を話すロシア人だ。

 しばらくすると,Zara はエストニア語を聞いたり話したりはできるが,どうやら読み書きはできないらしいことに Aliide は気づく。

Tyttö ei osannut lukea viroa. Puhui, mutta ei lukenut. Siksi tyttö oli selaillut lehteä hermostuneesti ja kaatanut teelasinsa, ehkä tahallaan päästäkseen tunnustamasta lukutaidottomuuttaan. (s.35)
 この娘はエストニア語が読めないのだ。話せても,読めないのだ。だから,この娘は新聞を見ていらつき,茶碗のお茶をこぼした。それも,読めないことを認めたくないから,おそらく,故意に。

 ロシア革命のあと,ロシアではラテン文字の導入が図られるが,スターリンが指導者になった30年代の後半以降はキリル文字化に逆転する。ソビエト時代のロシアの田舎では,ラテン文字を知らない人々がふつうにいたと言われる。エストニアの識字率は非常に高く,19世紀の終わりにはいわゆる「文盲」は事実上いなかったと言われている。Ingel 親子は農民だが,エストニア語の読み書きはできたはずである。しかし彼らのような背景があってロシアに移り住んでいる人々にとって,ラテン文字を知っていることを回りに知られることは,ますます立場を危うくすることだったはずである。祖母と母親は Zara から自分たちがエストニア人であることを隠して育ててきたし,Zara がそのことに気づいてからも,その話題は家族の間ではダブーになっている。しかし,読み書きはともかくとしても,かくまわれていた数日間,Zara は Aliide とはエストニア語で会話したと考えるのがもっとも妥当である。祖母のおかげで,ロシア訛りがあるものの,Zara はエストニア語の知識をずいぶんと身につけていたと考えてよさそうである。

 どこかである作家が言っていた話だと思うが,小説では,主人公に外国語を話させるのはとても簡単である。なぜなら,「太郎は流暢な英語でこう言った」と宣言すれば,せりふの部分は日本語でかまわないからだ。映画やドラマだとそうはいかない。俳優はそこで実際に外国語を話さないといけないのである。話は逸れるが,私は「ダ・ヴィンチ・コード」が好きで,原作(英語)を読み,映画も見ている。原作では,フランスの雰囲気を出すために,登場人物のせりふの一部をセンテンスごとフランス語にしたり,ところどころで,呼びかけに mademoiselle などを使う程度ですませられるが,映画では,(パリでロケしているわけだから当然だが) フランス人俳優を使って,フランス語の会話をさせたり,フランス語訛りの英語を話させたりと,細かい配慮をしないと観客は満足しない。私が心配することではないが,「粛清」がもしハリウッド映画化されるようになった場合,「ダ・ヴィンチ・コード」のような手法が取られるのだろうか。

【補足】 Aliide がロシア語で話したということがわかる箇所があったので,本文を修正した。 (2010/10/29)

【補足】 2011年8月に放送されたラジオ放送劇では,ロシア人の男たちの台詞の一部がロシア語になっていた。たとえば,簡単な決まり文句の会話はロシア語にする,台詞の最初の文だけをロシア語にする,などの手法は予想通りである。しかし,Zara 役の声優のエストニア語は今風で,とても流暢だったので,原作の Zara のエストニア語のイメージとはかなり違うと思った。 (2012/02/26)

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コメント

確かに小説と映画では、外国語を使う時の難しさがだいぶ変わりますねぇ。
考えたこともなかったです。

読み物として面白いブログだなと思いましたので、また読みにこさせていただきます☆

投稿: すけきよ | 2010年10月26日 (火) 13時21分

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