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エストニアのスウェーデン人 - rannarootslased / estlandssvenskar

 エストニア国内の少数民族というと,ロシア人だけだと思っている人が多いと思うが,1930年以前の様子はかなり違っていた。

 エストニアがロシアから独立した1918年に公式に認知されたのは,次の5つの国内少数民族で,そのエストニア総人口に占める割合は次のとおりだった。

 ロシア人  venelased (8.2% ─ 92 656 人) 都市住民,および東エストニアの農民
 ドイツ人  sakslased (1.5% ─ 16 346 人) 高学歴で,強い経済的影響力を発揮
 スウェーデン人  rootslased (0,7% ─ 7461 人) 西エストニア,農民
 ラトビア人  lätlased (0,5% ─ 5434 人) 南エストニア,農民
 ユダヤ人  juudid (0,4% ─ 4434 人) 都市住民

 ソ連邦併合以前のエストニアでは,総人口の88%を占めていたエストニア人が,現在では,その割合が 2/3 程度にまで減少していることを覚えておこう。少数民族としてのロシア人の地位が問題にされるが,これはソビエト時代に移住した数十万人のロシア人の多くが,エストニアにとどまったことを抜きに論じられない。戦前の朝鮮半島に住んでいた日本人の多くが,戦後もそのまま残って,韓国の国内少数民族になっていたら,韓国と日本の関係が今どうなっていたかを想像してみよう。エストニアのロシア人問題の複雑さと根の深さが,想像しやすくなるはずである。

 関連ページ: エストニアの言語状況 - Eestis räägitakse 157 keelt (2012/08/31)
 関連ページ: エストニア国籍は住民の85% - Eesti kodanike osakaal (2012/09/01)

 1930年以前のエストニアにいたロシア人以外の少数民族の人々のほとんどは,ナチス・ドイツ軍やソビエト軍による迫害・強制連行を逃れて,あるいは戦闘を避けて,国外に退去・脱出してしまった。また,エストニアに残った人々の子孫も,今日までにエストニア人に事実上同化してしまったため,今日では国内少数民族として取り上げられることはまずなくなっている。かつてドイツ人が多くいたことは,エストニア全国の主要な地名の多くに,ドイツ語の別名があることでわかる。他方,農民が主体だったスウェーデン人の場合は,スウェーデン語起源とわかる固有の地名が西エストニアや島嶼部に多数存在することからわかる。

 かつてスウェーデン人が多く住み,スウェーデン語の地名が残り,スウェーデン文化の名残がある地域の中心は,Läänemaa ラーネ県の北西部,ハープサルの北の Noarootsi vald ノアローチ村である。この村の中心は,村と同じ名前の半島 Noarootsi poolsaar だが,この半島は陸続きになる前は,島だったことがわかっている。エストニアの西海岸は隆起しているらしい。

 地名の前半分 noa- の語源は不明らしいが,後半分 rootsi は,スウェーデンを意味するエストニア語で,この語を含む地名は Läänemaa ラーネ県や,その沖合の島嶼部ににはたくさんある。このほか,スウェーデン語で「村」を意味する -by で終わる地名も地図を見るとたくさん見つかる。

 なお,エストニアのいちばん大きな島 Saaremaa サーレマーと2番めに大きい島 Hiiumaa ヒーウマーは,エストニア本土とは異なり,ドイツ語ではなくスウェーデン語の名前でひろく知られている。

 Saaremaa = Ösel (< öö 夜+salu 原野)
 Hiiumaa = Dagö (< dag 昼+ö 島)

語源は,Ösel は,エストニア語ないしフィンランド語の借用,Dagö はスウェーデン語と説明されているが,意味の上で対になるから,もっともな感じがする。

 エストニアのスウェーデン人は,eestirootslased のほかに,rannatrootslased 海岸スウェーデン人 (ranna 海岸の) とも呼ばれ,むしろこちらのほうがよく使われる。フィンランド湾の西側の沿岸地方は,フィンランド側もエストニア側もスウェーデン人の漁民や農民が渡って住み着いた地域である。Noarootsi に住み着いたスウェーデン人は,フィンランド経由でやってきたとされている。他方,サーレマーは,バルト海に浮かぶスウェーデンの Gotland ゴトランド島との行き来があった。この両方のルートで,西エストニアは,スウェーデンと繋がっていたわけだ。

 ノアローチ村のホームページによると,1934年のこの村の人口は4388人,それが 1959年の国勢調査では,わずか 1606 人。これは,スウェーデンに亡命した人たちが大勢いたためと考えられる。現在の村の人口はさらにこの半分近くの 874 (2012年) に減っている。都市化と農村の過疎化はどこも同じ現象である。ちなみに,現在のハープサル市の人口は12000人程度らしいから,1930年代の Noarootsi は村ではなく,町とよぶべきかもしれない。

 エストニアのスウェーデン人関連公式ホームページ:
 ノアローチ村: Noarootsi vald
 スウェーデン文化博物館: Rannarootsi Muuseum - Aibolands Museum (Haapsalu)

Noarootsi 村はここ
Noarootsi valla asukoht eesti kaardil

Noarootsi 村とハープサル周辺
Noarootsi valla asukoht Haapsalu suhtes

スウェーデン語の地名: Norrby (Vormsi 島) の灯台の切手
Vormsi 島は Noarootsi 半島の西の対岸。
Norrby alumine 1935-2005Norrby ülemine 1935-2005

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コメント

まだスウェーデン系が残っているのでしょうか?

スウェーデン人が住んでる町?をみた エストニア
http://blog.livedoor.jp/eestimaa/archives/1292684.html

「道路標識はエストニア語とスウェーデン語の二ヶ国語で表示されている。」

投稿: | 2014/05/17 06:34

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