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あるタリン紹介のブログ - Tallinna Vanalinna fotod

 タリン紹介として,写真がきれいなページがあったので,紹介します。

 ブログページ: バルト三国周遊記 エストニア編

 旅行ガイドブックから切り抜いたようなきれいなページで,しかもネガティブなことは何も書かれていないので,注文をつけるのは心苦しいのですが,ステレオタイプのタリンのイメージが完璧なまでにまとめられているところが気になってしまいました。以下のコメントはたわごとなので,読み捨ててください。

その1。「デンマーク、ドイツ、スウェーデン、ロシア、ソ連と近隣の強国に翻弄され続けてきたエストニア」。

 現在エストニアと呼ばれている国ができてから,まだ95年くらいしかたっていません。今のエストニアの領土になっている地域が「エストニア」と呼ばれるのも,エストニア人を国民の主体とする主権国家ができたそのときです。中世からずっとエストニアという国があって,その国民は異民族支配に苦しんでいたが,独立によって解放されたとするのは,エストニアという独立国の成立が歴史的必然であったとする理由づけをするために作られた「神話」です。

 脱線しますが,同じような「長い異民族支配の歴史」があったとされる,フィンランド湾の対岸の隣国のフィンランドという国が生まれたのは,エストニアよりも100年ほど早いだけの19世紀の初頭です。それまで,現在のフィンランドにあたる地域は北欧の大国・スウェーデン王国の東半分になっていました。フィンランド地域が,スウェーデン王国に属していた当時のスウェーデンは先進国のひとつで,フィンランド人はスウェーデン本国の人々と基本的に同じ恩恵を享受できる境遇にありました。だから,19世紀のフィンランド人たちは,スウェーデンに属していた時代を,暗い時代と思うどころか,むしろ懐しんだようです。ちなみに,「長い異民族支配の夜の闇を打ち砕き,夜明けをもたらした勇敢なフィンランド民族」的な内容の「フィンランディア讃歌」の詩が書かれたのは,独立国になったあとです。戦時下,ソ連の脅威に立ち向かうためには,愛国心の鼓舞が必要でした。

 ふたたびエストニアに戻れば,ソ連邦支配下のエストニアは確かにたいへんでした。でも,20世紀初めに独立するまでの数百年間,エストニア人がずっと「ソビエト体制」と同じような圧政下に置かれてきたかというと,それは必ずしも当たっていない。当時のヨーロッパ全体をみるなら,他の地域の農民たちも,多かれ少なかれ,エストニアの農民たちと同じような境遇にあったわけで,エストニア人をはじめとするバルト三国の民族だけが特別に不幸だったわけではないのです。さらに,農地改革以前の青森県の津軽地方の地主と小作農民の関係を思い起こしてみると,日本の農民の中にも,ついこの間まで,19世紀のヨーロッパの農民や江戸時代の農民と大して違わない境遇で生きていた人たちがいる。エストニア人の場合,ほとんどが農民だったので,あたかもエストニア民族全体が異民族支配下で受けた特別な悲劇というふうに捉えられてしまっているだけのことだと思います。

 ちなみに,19世紀の地元のドイツ人たちは,むしろエストニア語を盛り立てようとしたといっていいし,農民主体だったにもかかわらず,エストニア人の識字率は,19世紀末には90%を優に超えていたと言われています。ロシア革命後のロシアはもっと後進国でした。つまり,エストニアはソ連崩壊後の今と同じく,独立当時も,ロシア周辺国家としては,たいへんな優等生だったと考えた方があたっています。

その2。「北ヨーロッパで最もよく保存された中世の雰囲気が残る博物館のような街並み

と前書きで形容されたタリン旧市部紹介の最初に出てくる写真は,中世の街並みをむしろ壊してしまった20世紀初頭のロシア化時代の象徴的建築物「ロシア正教教会(sic !)のアレクサンドル・ネフスキー聖堂」。タリンの旧市部の中でもっとも目立つ,非北ヨーロッパ風の建築物として,ロシア人によって建てられた建築物です。ネフスキーは,フィンランド湾沿岸の征服者の名前であることからも,建立の意図がわかります。沖縄の首里城の真向かいに島津神社が建っているみたいなもの。中世のタリンの雰囲気に浸るのが目的なら,この建物が見えない位置に身をおいたほうがいいと思うのは私だけではないと思います。

 冷戦時代のポーランドのワルシャワで流行ったというジョークに,「ワルシャワでもっとも美しい街並みが見たいのですが」「だったら,あのホテルの最上階へ行きなさい」「どうして」「ソビエト建築が見えない場所はあそこだけだから」というのがあったそうです。

 もちろん,京都駅前の京都タワーが,東寺の塔と並んで,現在の京都の風景として日本中で知られているように,ロシア大聖堂もタリンのトーンペアのスター的存在の建物であることを否定するつもりはありません。でも,京都案内の冒頭に京都タワーをもってきてほしくないと考えるのは,わがままかなあ。おっと,年代的に言えば,南禅寺の京都疎水の水路閣だって100年くらい前のものなのに,すっかりお寺の風景に溶け込んでいるではないか,と言われると,反論はむずかしい。

 昔,ヘルシンキ大学に留学していた頃,フランス人留学生と,パリのモンマルトルのサクレクール寺院(タリンのトーンペアのロシア大聖堂と同時期)や,現代美術館のあるポンピドーセンターの姿について意見を交わしたことがあります。サクレクール寺院はすっかりパリの街並みに馴染んでいて,ポンピドーセンターも数十年先になれば,すっかり馴染むよ,という結論になりました。ただ,トーンペアのロシア大聖堂は,もともと周りの建物に馴染むことを期待して建てられたものでないところが,パリの事情とは決定的に違うような気もします。

その3。「タリン近郊にある 歌の原」。

 やはり「歌の原」がここにも登場します。この観光名所の名前についての,このブログの主の考え方は,ここ (タリンの「歌の原」について - Tallinna Lauluväljak) でお読みいただけるとうれしいです。


京都タワー (1964)
京都タワー

Centre Pompdou, Parsis (1977)
Centre Pompidou, Paris

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