略語 EKP - Euroopa Keskpank / Eestimaa Kommunistlik Partei
EKP president という見出しを見て,えっ,エストニア共産党ってまだあったの? と思った私は紛れもなく古い世代である。しかし,よく考えて見れば,共産党には president はいなかったはずである。
記事: EKP presidendi ametikoht tähendab ilmselt Weberi ja Draghi duelli (E24 2011/01/17)
ソビエト体制が崩壊してほぼ20年,今エストニア語で EKP (エーカーペー) というと Euroopa Keskpank (European Central Bank, ECB),日本語で欧州中央銀行のことらしい。記事は,同銀行の次期の総裁 president の座が,ドイツの連邦銀行総裁の Axel Weber 氏とイタリア中央銀行総裁の Mario Draghi 氏の間で争われることになりそうだということを伝えている。
かつて EKP と言えば,泣く子も黙る Eestimaa Kommunistlik Partei エストニア共産党 【*注】のことだった。参考までに,この党のトップは,私の記憶間違いでなければ EKP Keskkomitee esimene sekretär エストニア共産党中央委員会第一書記 と呼ばれていた。第一書記の下には,第二書記 teine sekretär と,書記 sekretär が3人程度いたようである。
ちなみに,中央委員会には,合わせて100数十人を数える委員 liige と委員候補 liikmekandidaat がいたが,その中枢が10数名の政治局員と政治局員候補からなる政治局 büroo で,第一書記,第二書記,書記はいずれもこの政治局員から選ばれた。前大統領の Arnold Rüütel リューテル は,政治局員だったから,共産党の中枢にいた人である。かつて共産党の中枢にいて,政治の世界で今も生き残っているのは,リューテル氏ただ一人ではないかと思われる。
今,エストニア共産党について何か知りたいという場合,簡単に情報を得る方法がある。14巻からなるエストニア百科事典の最初の巻が出たのがまだソビエト時代の1985年で,最後の巻が出たのが2000年であるために,最初の数巻は内容的にソビエト時代の出版物と言っていいからだ。エストニア共産党に関する項目のあるのは第2巻だから,非常に詳しく書いてある。参考までに,この百科事典は,第4巻までは Eesti Nõukogude Entsüklopeedia エストニア・ソビエト百科事典 (略称 ENE) と呼ばれていたが,1990 年に出た第5巻から Eesti Entsüklopeedia エストニア百科事典 (略称 EE) に名前が変わったことでも有名である。
関連ページ: ソビエト時代 - nõukogude aeg (2010/02/17)
関連ページ: スターリンの偉業 - Stalini suur asi (2010/10/11)
関連ページ: 政党を意味するエストニア語 - erakond, partei (2009/09/19)
余談になるが,ご本人にはたいへん申し訳ないが,欧州中央銀行の次期総裁候補の写真に,共産党中央委員会第一書記の候補と書いてあれば,そのまま信じてしまいそうな雰囲気があると感じるのは私一人ではないと思う。だから私はうっかり勘違いしそうになってしまった。
【*注】 ソ連邦時代,エストニア共産党という独立した党組織があったかどうかについては,私は疑問に思っている。独立時代も非合法だったはずだから,ソ連邦併合時にもきちんとした党員組織をなしていなかった可能性が高い。いずれにしても,1980年代当時の「エストニア共産党」は,ソ連共産党の中の地方組織に過ぎなかったと私は理解している。「エストニア共産党中央委員会第一書記」は,言ってみれば「ソ連共産党エストニア支部第一書記」にすぎなかった。ソ連邦の構成共和国が主権をもちながら連邦国家に参加しているとする建前と同じ理屈が,共産党組織にも適用されていたと考えればわかりやすい。
ゴルバチョフ派として知られたエストニア共産党の最後の第一書記 Vaino Väljas は,エストニア生まれで,タルト大学を出ているが,その前任者の Karl Vaino はウラル山脈の向こうの西シベリアのトムスクの生まれだ。名前はエストニア人だが,ロシア語訛りの強いエストニア語しか話せず,評判がよくなかったようだ。党の重要会議はすべてロシア語で行い,エストニア人大衆の前で恥をかかないために,エストニア語で演説することを避けたと言われている。ところで,このお二人は今どうしているのだろうか。
フィンランド人作家 Sofi Oksanen ソフィ・オクサネンの小説「粛清」には,ソ連邦に併合されたエストニアに,エストニア語をj話すが,立ち居振る舞いはロシア人というソビエト兵士が大勢到着したことが書かれている。エストニアの独立戦争でソ連側について,ロシアに亡命していた共産党系エストニア人の二世,三世たちがかなり含まれていたと思われるが,それより早く,帝政時代にシベリアに開拓者として移住したエストニア人たちの子孫もいたはずである。
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