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エストニアのピアノ - Estonia Klaverivabrik

 英語に survive という動詞がある。「~より長く生きる」という意味だが,多くの場合は,何が災難や苦労があったときに,それに打ち勝って生き残ったような場合にも使われて,「~を生き延びる」などと訳される。エストニア語では ellu jääma 生き残る という熟語動詞がこの意味にもっとも近そうだ。

 ソビエト時代に生まれて,ソビエト体制崩壊後に受け継がれた遺産が,この20年間のエストニアの復興の出発点になったかのように思う人がいたら,その人は大きな誤解をしている。ソ連邦併合以前からのエストニアの伝統で,ソビエト体制を生き延びることができたものがたくさんある。ソ連併合以前の時代からの遺産のかなりのものが,幸いにもソビエト体制によって食い尽くされることなく生き残り,ソビエト体制崩後の1990年代に再び花開いたとみると,エストニアのめざましい復興の秘密がわかってくる。

 私は,音楽のことはよく知らないし,ピアノは弾いたこともない人間である。しかし,Estonia というエストニア製のピアノ klaver があることは以前から知っている。エストニアではソ連邦に併合される前からピアノが作られていたが,ソ連邦への併合やその後の戦争で,ピアノ工場は閉鎖・破壊された。しかし,伝統技術・伝統文化は,それを担ってきた人が生きている間は完全に消滅するわけではない。第二次大戦後,ソビエト体制下にもかかわらず,かつての伝統が復活して生まれたピアノが Estonia である【*注1】 ピアノ製造の知識や技能が生き残ったエストニアでは,ソビエト体制下でもすぐにピアノを作り始めることができたが,ロシアではそれは不可能だった。

 ソビエト体制下では,たとえば絵画や映像,デザインなど視覚的な芸術はプロバガンダの道具に変えられたといっていい。他方,音楽や舞台芸術は必ずしもそうではなかったようで,クラシック音楽や古典バレエのようにむしろ奨励され,非常に高いレベルを保ち続けたジャンルもある。奨励された芸術の分野では,まさに社会主義体制でしか実現できない英才教育のしくみが国策で作られ,資本主義諸国をうらやましがらせた。クラシック音楽も古典バレエも革命以前からの宮廷文化の遺産であり,「ブルジョア的芸術」の典型であるわけだから,これらの芸術が「ブルジョア文化」を否定したはずの社会主義体制下で興隆したというのは皮肉である。下衆の勘ぐりにすぎないが,きっと独裁者スターリンが,たまたま,クラシック音楽を聞いたり,古典バレーを鑑賞するという「貴族趣味」をもっていたというような気まぐれな理由が背景にあったのではないか,と考えたくなる。エストニアで,ピアノを作り続けることができたのも,クラシック音楽の中心的な楽器の1つであったからではないだろうか。

 エストニア・ピアノを話題にしたブログがある。読むと,「旧ソ連時代,ロシアでは最も代表的な自国のピアノ」「長いことこのピアノのことをロシア製ピアノだと疑いもせずに思いこんでいました」「ロシアで最も広く愛用されたピアノ」などの表現が,散りばめられている。

 問題のブログ: エストニア (ぴあのピアの徒然日記)

 このブログを書いている方は,エストニアはソ連時代にもエストニアであって,ロシアであったわけではないという事実を,すっかり忘却されたようである。エストニアは,行政的にもロシアの一部ではなかったから,ソ連邦構成共和国としての国境が存在した。その国境は形だけのものと言われながらも機能していたことが,それがそのまま現在のロシアとエストニアの国境として引き継がれていることからもわかる。

 ソビエト時代のエストニアではロシア語が使われていたと思い込んでいる人が今でも多くいるようだが,タルト大学がロシア語の大学になったことがないと知って驚くかもしれない。タルト大学は長い間ドイツ語の大学だったのは事実だが,帝政ロシア時代ペテルブルク大学やロシアの科学アカデミーもドイツ人学者で溢れていた。1918年の独立の後,タルト大学はエストニア語化され,そのエストニア語の大学がソビエト体制を生き延びて,今日に至っている。

 ソ連邦がまだあった時代,日本人にとっては一律に「ソ連産のコニャック」「ソ連産のワイン」だったかもしれないが,ソ連邦の中では,「アルメニアのコニャック」「グルジアのワイン」などと,人々は産地を意識して味わっていた。ソ連邦の中でも「ブランド志向」はあったのである。エストニア・ピアノも対外的には「ソ連製」だったかもしれないが,ソ連邦の中では,まともな音楽関係者なら誰一人「ロシア製」とは考えていなかったはずである。むしろロシア製ではなかったから,ソビエト時代のロシアで,高級なピアノとして高い評価を受けることができ,珍重されたのだと考えると事情が理解しやすい。

「旧ソ連のころからの伝統あるメーカーというのは,なんだかそれだけで謎めいていて,そそるものがあります。昔のロシアの巨匠達は皆,このピアノで腕を磨いて大成していったのかと思うと,あの偉大なロシアピアニズムを支えたピアノとして,とてつもないノスタルジーさえ感じてしまいます。」

という結びの言葉のノスタルジーは間違った方向を向いているようにも見えるが,読み方によっては,ロシアのピアノ音楽が今日あるのはエストニア・ピアノのおかげであると評価しているとも解釈できるので,ここは,エストニアのピアノ作りの伝統に対する最高級の「賛辞」 ─ エストニアのソ連併合なくしてロシアの現代音楽はありえなかった ─ と受けとめておく。モスクワが,離れて行ったバルト三国に対していつまでも未練たらしい目を向けているのはそのために違いない。手放したくなかったのだ。

 ただし「旧ソ連のころからの伝統あるメーカー」とか,冒頭に出てくる「旧西側世界ではほとんど馴染みのないメーカー」というレッテル貼りは感心しない。後者について言えば,ヨーロッパは確かにロシアの西にあるが,日本はロシアの東隣だから「旧西側世界」には属さないはずだ。日本人が知らないことを根拠に,世界も知らないというふうに一般化するのは最近の日本人にありがちな思い上がりである。

 エストニア・ピアノのホームページ (www.estoniapiano.com) には,エストニアでのピアノ製作の歴史が英語で簡単にまとめて書かれている 。ソビエト時代よりずいぶんと昔に遡るのはもちろんのこと,エストニアでは,ピアノが日本で作られるよりかなり以前から作られていたのは否定しがたい歴史的事実である【*注2】。このほか,エストニア・ピアノが置かれている世界の教会やホールなどの一覧が載っているページがあって,広島の名前も見える。また,エストニア・ピアノについての世界の識者のコメントを集めたページもある。

 エストニアのピアノの歴史: History
 世界各地のエストニア・ピアノ: ESTONIA in the world

 なお,英語の Wikipedia の記事 (Estonia Piano Factory) には,1990年代以降のエストニア・ピアノの評判も簡単にまとめられている。エストニアのピアノ製造の伝統は,短期間の間にソビエト時代のほこりを振り払って,かつての姿を取り戻したと考えても,あながち,エストニアびいきの評価にはならないようである。

【*注1】 1950年にエストニア・ピアノ製作所 Estonia Klaverivabrik (Estonia Piano Factory) が作られたとき,すぐにピアノ製造に取りかかれたのは,1930年代までに蓄積された知識と技能を覚えている技術者たちが,文字通り,戦争とスターリンの恐怖政治を生き延びて,まだ存命であったおかげである。なお,ソビエト時代に一介の市民が自らイニシアティブをとって工場を興すことが許されたわけはないから,モスクワの決定で地元の共産党組織が動いて,ピアノ作りが再開されたとしか考えられない。モスクワの誰かが党の重役会議で「上様,ピアノ作りは,エストニアのタリンにかぎります」と進言したのかもしれないし,エストニア共産党の「江戸屋敷」を通じて,クレムリンのお城に対して,ピアノ工場再開に関するお伺いがたてられて,それが認められたのかもしれない。

【*注2】 エストニアにおけるピアノ製造は18世紀の終りに始まり,エストニア・ピアノ製作所の前身となった会社の創業は1893年とされている。ヤマハの創業者がピアノ製造法の勉強に渡米したのは1900年らしい。現在,エストニア・ピアノは,ヤマハがピアノ製造を学んだ先の北米を中心に売れている。

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