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クリスマスツリー発祥の地はリボニア - Liivimaa

 クリスマスツリーを市庁舎広場に飾ったのは,ラトビアのリガが先か,エストニアのタリンが先かの論争に「政治的決着」がついたと,通信社 BNS (Baltic News Service) が伝えている。金曜日 (12/10) にリガを訪れたエストニアのアンシプ首相 Andrus Ansip とラトビアの Valdis Dombrovskis 首相が「クリスマスツリーの発祥地はリボニアである」とする「共同宣言」を発表したというのだ。この解決を提案したのは,ラトビアの国会の外交委員長 Ojars Kalnins 氏と言われる。

 記事: Ansip ja Dombrovskis: jõulukuuse sünnikoht on Liivimaal (Postimees 2010/12/10)
 関連ページ: クリスマスツリー発祥の地 - jõulupuu päritolumaa (2010/12/07) 【*1】
 関連ページ: クリスマスツリー発祥の地論争の続報 - jõulukuusk (2010/12/10)

 ロシア帝国の時代の地図をみると,現在のエストニアとラトビアにあたる地域は,現在のエストニアの北半分がエストラント Estland,現在のラトビアの西南部がクールラント Kurland で,残されたラトビアと南エストニアがリーフラント Livland というふうに大きく3つに分かれている。サーレマー Saaremaa は,エストラントではなくて,リーフラントのほうに含まれていたはずである。

 リボニア Livonia【*2】とはこのリーフラントのことだと思い込んでいた私は,あれ,タリンはリボニアには含まれていないはずだから,これは,歴史に無知なエストニア人に,エストニアとラトビアはリボニアがふたつに分かれてできた国であると信じさせておいて,あとで,実はタリンはリボニアに属していなかったと主張を翻して,クリスマスツリー発祥の地のタイトルを独占しようとするラトビア人の陰謀ではないか,と一瞬疑ってしまった。BNSによれば,アンシプ首相は「タリンはリボニアに属していなかったはずだが」と指摘した上で,「共同宣言」に賛成したそうである。

 ところが,リボニアはもともとは,現在のエストニアとラトビアを合わせた地域,つまり,ロシア帝国の時代のエストラント,リーフラント,クールラントの3つを合わせた地域にほぼ相当する地域のことだったというのは,歴史的な事実らしい。Wikipedia を検索してみると,1642年に出たリーフランドの地図が載っていて,この地がスウェーデン支配下にあったころは,まだその古いリボニアの概念が生きていたらしいことが確認できる。現在のタリン周辺がリボニアに組み入れられたのは1347年で,この歴史的な地域としてのリボニア (エストニア語では Vana-Liivimaa) が崩壊するのは,1561年に始まったリボニア戦争以後のことだそうである。

 一時にせよ,ラトビア人を疑ってしまった自分の無知を深く恥じている。なお,両国首脳は,エストニアとラトビアの間には,クリスマス・ツリーの発祥地の問題以外には未解決の課題はなく,これを機会に,クリスマス・ツリー発祥の地の栄誉を共有する国として,ますます協力関係を深めて行こうではないか,と固く握手したとのことである。

【*1】このクリスマスツリー論争を話題にしたブログページの閲覧回数が,12月10日だけで,突如935回に跳ね上がった。その結果,@nifty ココログの私のブログへの1日のアクセス数1343回という記録的数字になり,その日のココログ全体のアクセス数ランキングで 437 位になった。ただ,なぜこの話題がそんなに興味を引きつけたのか,理由がいまひとつぴんと来ない。季節にぴったりだったからだろうか。

【*2】日本語 Wikipedia の「リヴォニア」の項は誰が書いたのか知らないが「[リボニアの] 現在の住民はほぼバルト系ラトビア人とロシア人で占める。中世はハンザ同盟の影響でドイツ系の住民が多数を占めていた(バルト・ドイツ人)」と書いている。これはおかしい。確かにリーブ人の末裔は少数になってしまったが,リボニアの北半分,現在の南エストニアの住民のほとんどはエストニア人である。エストニアでロシア人がほとんどの住民である地域は,東北部,すなわちナルバのある東ビル県 Ida-Virumaa だけである。しかもナルバとその周辺がロシア人居住地区になったのは第二次大戦後のことで,ここが戦場になり,住民が疎開させられた後に,ロシアからの移住者が住み着いたためだ。また,バルト・ドイツ人は商人,封建領主,聖職者 (ルーテル派) などだったから,リボニア (リーフラント),エストラント (現在の北エストニア) での彼らの社会的・文化的な影響力は非常に大きかったが,これらの地域でドイツ人は多数派を占めていたわけではない。住民の圧倒的多数を占めていたのが,農村部に住むラトビア人やエストニア人だったことに変わりはない。エストニアやラトビアにドイツ人がほとんどいなくなったのは,第二次大戦前夜にドイツへの移住が行われたためである。

クリスマスツリー jõulukuusk, jõulupuu
誕生の地     sünnikoht
リボニア      Liivimaa cf. ラテン語 Lovinia, ドイツ語 Livland
解決する     lahendama
共同宣言     ühisavaldus
提案        ettepanek
名付ける     nimetama
歴史的な     ajalooline
及ぶ,広がる   ulatuma
同意する     nõustuma
リボニアに属する Liivimaa koosseisu kuuluma
崩壊する      lagunema
リボニア戦争   Liivi sõda
勃発する     puhkema

【更新履歴】 本文を修正 (2011/01/20)

タリンのクリスマスツリー
Tallinna jõulukuusk.

1642年のリボニア地図 (画像クリックで拡大)
Tallinna jõulukuusk.

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