スターリンの偉業 - Stalini suur asi
言語学では,1つの表現が読み方によって2通りの違った意味に解釈できることを,二義的 kahemõtteline (英語 ambiguous) と読んでいる。たとえば
子どもができないわけですよね
という文は,「子どもに何かができない」という意味にも,「誰かに子どもが生まれない」とう意味にもとれるが,この種の表現を二義的というわけだ。また,この種の表現には二義性 kahemõttelisus (英語 ambiguity) があるという言い方もする。
スターリン時代のソ連共産党のスローガンに「スターリンの偉業のために」というのがある。当時は,いわば神聖にして犯すべからざる表現だった。
за великое дело Сталина (ロシア語)
Stalini suure asja eest (標準的なエストニア語訳)
スターリンの偉大な事業のために
ところが,このスローガンをエストニア語に訳した共産党員はたいへんな間違いを犯してしまった。エストニア語の asi 「こと」という語が,口語であまり神聖ではない意味で使われることをうっかり見逃してしまったのである。エストニア人の男の党員たちは,女性党員たちが「スターリンの大きなものために」と元気よく叫ぶたびに笑いをこらえるのに苦労したに違いない。太平洋戦争中,教育勅語の意味のわからなかった小学生たちが「チン思うに」と聞くたびに笑いをこらえたという話を聞いたことがあるが,厳粛なことばをシモネタに替えてしまうというのは,専制政治の支配する社会に共通に見られる社会現象なのかもしれない。
エストニアの場合,訳語を取り替えればよかったではないか,という人がいるかもしれないが,訳語を替えることは,もうひとつの解釈が民衆の間で行われて,党がバカにされていることを暗に認める結果になり,党のメンツは潰れるわけで,おそらくそれは意地でも出来なかったであろう。また,何しろスターリン時代である,ヘタに指摘すれば,自分の身に何が起こるかわからない。党員たちはそれを恐れたかもしれない。
このスローガンを話題にしたのは,Sofi Oksanen ソフィ・オクサネンの「粛清」のフィンランド語の原文にまさにこのフレーズがあるのに,エストニア語訳者がそれを間違えて (?) 訳していることを指摘し,概ね申し分のないエストニア語訳の出来に,ほんのちょっとだけ不満を述べている評論を読んだからである。
Taistelemme Stalinin suuren asjan vuoksi. (フィンランド語原文)
スターリンの大きな仕事のために戦おう
Võitleme koos seltsimees Staliniga. (エストニア語訳)
スターリン同士と共に戦おう
念のために言っておくが,問題の評論を書いているのは,エストニアでは名の知れた女性の文学研究者である。ただし,彼女は,この表現から正式でない意味が読み取れることを指摘しているだけで,それがどういう意味かを明示的に書いているわけではない。いつ,どこで,だれから聞いたのか記憶はまったくないのだが,外国人の私でさえ知っている,エストニア語のいわば基礎知識だから,エストニア人の読者に詳しく解説する必要のないことがらである。
確認のために,「ソビエト語小辞典」 Väike soveti keele sõnaraamat (Uno Liivaku 2008) で調べてみると, Stalini suur asi というフレーズが見つかる。また,エストニア語大辞典 Eesti keele seletav sõnaraamat も「口語で」と断わって asi のこの意味を載せている。
関連ページ:
エストニア語大辞典: 勲章 - teenetemärk (2010/02/04)
ソビエト語小辞典: ソビエト時代 - nõukogude aeg (2010/02/17)
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