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読み書き能力 - kirjaoskus

 1940年,エストニアは,いきなりスターリン体制のソ連邦に併合されるが,この前後の時期のエストニア社会の様子は,ソフィ・オクサネンの小説「粛清」 (Sofi Oksanen: Puhdistus / Puhastus) では,「1939ー1944 西エストニア 戦線の噂からシロップの匂いへ」 という章に描かれている。

 1939年の秋には,ドイツ本国からの要請で,バルト3国に住むドイツ系住民,いわゆるバルト・ドイツ人 baltisakslane たちが大量にドイツに移住する。このとき,エストニアからは 12000 人を超えるドイツ人が去っている。小説では,主人公 Aliide と姉の Ingel の幼友だちのドイツ人少女が別れの挨拶にやってくる。

 Ingel と Hans の娘 Linda は,エストニアのソ連邦併合の年 1940 年に生まれる。Zara の母親である。街にはソビエト兵があふれ,村にも顔を出し始める。身の危険を感じた Hans は村から逃げて,森に身を隠す。これが,のちに metsavennad 森の同胞たち (metsa 森林の+vend 兄弟,複数形) と呼ばれるようになる反体制ゲリラ集団のはじまりである。森の同胞の最後の生き残りが当局に追い詰められて自殺したのは1978年と言われる (National Geographic, 1990)。1960年代になるまで,エストニアに外国人が入国できなかったのは,彼らの活動が続いていたためと考えられる。

 エストニアを闊歩し始めたソ連共産党員たちのスローガンの1つ「スターリンの偉業のために」がパロディ化され,ジョークとして長く残ったことについてはすでに書いた (スターリンの偉業 - Stalini suur asi 2010/10/11)が,もうひとつのスローガン「文盲 kirjaoskamatus の撲滅」も,ロシアの後進地域ではいざしらず,エストニアで叫ぶのは時代錯誤も甚だしかった。エストニアの識字率は1930年代の半ばには95%を超えていたからである (1934年 - 96.1%)。エストニア人の読み書きの能力 kirjaoskus は, 1897年のロシア帝国最後の国勢調査の時点で,読む能力 91.2%,書く能力 77.7%という識字率の数字が報告されているほど高かった。自分たちより教養が低いかもしれない余所者が,文盲の撲滅を叫んだとして,誰がまともに耳を傾けるだろうか。

Varsinaisia vitsejä olivat upseerien rouvat, jotka koikkelehtivat hapsuyöpaidoissa kylillä, tanssiaisissa ja kaduilla, ja entä sitten puna-armeijan sotilaat, jotka kuorivat keitetyt perunat kynsillään, kun eivät osanneet käyttää veistä! (Puhdistus, s.127)
 ジョークの格好の的になったのは,レースの寝間着を着て,外出して街や通りを歩いたり,ダンスパーティーで踊っている,危なっかしい足取りの兵士の妻たちと,ナイフを使うという作法を知らず,ゆでたジャガイモの皮を爪で剥いている,夫の赤軍兵士たちである。

 この話は私も聞いたことがあるが,おそらく都市伝説だろう。しかし,恐怖政治と最高度数の異文化体験にショックを受けたエストニア人たちが,ドイツ軍の侵攻によるソビエト軍の撤退を心から望んだとしても不思議はない。大戦時におけるドイツ軍の罪状は別として,同じ占領されるならドイツ人のほうがはるかにましだ,とドイツ軍を迎えた多くのエストニア人が胸をなで下ろしたという話は本当のようである。

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