エストニア文学の巨匠:A・H・タンムサーレ
ソビエト体制下では,読むことが許されている作家とそうでない作家があるなど,文学というのはきわめて政治的な領域だった。ちなみに,たとえばエストニア科学アカデミーの図書館(現在のタリン大学学術図書館)には,一般の市民には閲覧できない1930年代以前の図書が収蔵されている書庫があったほか,読んではいけない「危険な本」のリストも図書館向けに作られており,文学でいえば,亡命作家の作品の多くがリストにあがっていた。もっとも,特別な書庫の存在は公然の秘密で,特別な許可があれば閲覧することもまったく不可能ではなかったようだ。
タンムサーレ(A. H. Tammsaare, 1878.01.30-1940.03.01) は没年からわかるように,ソビエト時代の用語を使えば「ブルジョア時代」の作家だが,読んではいけない作家ではなく,エストニア文学の巨匠として研究することができた。ただ,「ブルジョア時代」の民族文学の解釈に関しては,イデオロギー的な制約がかけられたので,当時の文学専攻の学生がこの作家を研究対象に選んだととき,楽しく研究できたかどうかは知らない。
タンムサーレのいちばん有名な作品は,5巻からなる『真実と正義』 (Tõde ja õigus, 1926-33) で,これはエストニア文学の作品としてもっとも長いものだろうと思われる。手もとの『エストニア作家事典』(Eesti kirjanike leksikon)の 2000年版でみると,この作品の5巻全部の完訳が出ているのは,ラトビア語(1936-38),ドイツ語(1970-89),フランス語(1944-48),ロシア語(1953-67),チェコ語(1976-83)だけらしい(ただし10年前の時点)。1944年~1948年に最初の全訳が出たフランス語で,新訳が今年中に完成する予定という。第1巻は昨年(2009)2月に出たらしい。[記事ページ]
エストニア語の Wikipedia を見たところ,意外にも,この作品については,次のように書かれているだけだった。
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『真実と正義』は,A・H・タンムサーレの5部構成の小説で,19世紀後半から1910年代までのエストニア社会の変動を描いている。人と大地,神,社会,自分自身との関係を扱った作品である。『真実と正義』は 1920年から1930年に刊行された。
第1部-大地との格闘
第2部-神との格闘
第3部-社会との格闘
第4部-自身との格闘
第5部-逆戻り,降参
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私は第1部の最初の部分しか読んだことがない。会話の部分には,当時のエストニア語の方言がふんだんに出てくるので,読み進めるのは結構たいへんである。舞台化,映画化もされており,多くのエストニア人にとってはそのほうがなじみがあるかもしれない。
ソ連体制が崩壊する直前のペレストロイカの時期には,亡命作家の作品も含め,エストニア語の文学作品の解釈や評価が大きく変わり始めてはいたけれど,1965年~1991年に出た公式の『エストニア文学史』(Eesti kirjanduse ajalugu) で展開されたような解釈を体系的に覆すような文学史は,今のところまだ書かれていない。
2005年~2006年に出た高校の文学教科書は,フォークロアと19世紀末まで,20世紀初めから1940年まで,1940年代から現在までの3部構成になっている。タンムサーレには,2巻の13ページが充てられ,『真実と正義』の解説が5ページ半を占めている。この教科書には,それぞれの巻で扱われた作家の作品を朗読したCDが3枚付属している。
Vanem eesti kirjandus. Koolibri 2005. 「古いエストニア文学」
20. sajandi I poole eesti kirjandus. Koolibri 2006. 「20世紀前半のエストニア文学」
Uuem eesti kirjandus. Koolibri 2006. 「新しいエストニア文学」
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